2011年10月17日月曜日

常陸のこころ(1)


「二孝女」に関しては、茨城県でも大きく取り上げられています。
地元の新聞に5回シリーズで「常陸のこころ」として紹介されています。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110090001

-------以下 asahi.comより引用

常陸のこころ

(1) 孝行話 200年を超えて

2011年10月09日
写真
常陸太田市で披露する盆踊りの練習に精を出す「野津町きっちょむ史談会」会員ら=大分県臼杵市野津町の野津中央公民館
頓知話で知られる「吉四六(きっ・ちょ・む)さん」の里、大分県臼杵市野津町。1日夜、30人ほどの男女が中央公民館ホールに集まった。市中心部から離れた山あいの町で、盆踊りの練習が静寂を破った。太鼓の調子に合わせた口説き歌の中身は地元で語り継がれる孝行話。
「二孝女物語」という。臼杵が「豊後」、茨城県常陸太田市が「常陸」だった時代、豊後の農民初右衛門が旅の途中で常陸の青蓮寺(しょう・れん・じ)の前で病に倒れ、7年も村民らの厚情を受けた。母を早くに亡くした父思いの娘、ツユとトキが長旅の末に初右衛門と再会し、無事に古里に連れ帰ったという話だ。
踊る男女は「野津町きっちょむ史談会」の会員ら。物語の伝承に励む60代を中心とする市民団体だ。父娘の再会から今年で200年。14日、祖先を助けてもらったことへのお礼と常陸太田市との交流促進を図るために同市を訪れる。練習は2時間近く続いた。
史談会は1989年に結成され、地域の歴史・文化を後世に残す活動をしている。「二孝女」もその一つだが、言い伝えか史実かはっきりしないために、広がりにいま一つ欠けるうらみがあった。
「二孝女の記録は残っていませんか」。2004年、事務局長の荘田啓介さん(64)は青蓮寺に連絡を入れた。町に残る資料も送ったが収穫はなかった。「野津で地道に調べるしかない」。そう気持ちを切り替えた。
同じころ。元目白大教授(近世文化史)で水戸市に住む秋山高志さん(76)は、水戸藩の役人が著した「水戸紀年」に二孝女の記述を見つけた。わずか数行。興味をそそられ、友人で常陸大宮市歴史民俗資料館の調査研究員、野上平さん(74)に協力を求めた。常陸太田市に住む野上さんは早速、青蓮寺周辺の取材に動いた。古老や檀家(だん・か)に尋ねても知る人はいなかった。
秋山さんは05年3月、単身臼杵市に飛んだ。史談会の動きも知らず、あてはなかった。初右衛門の菩提寺(ぼ・だい・じ)・善正寺辺りに行けば、「端緒がつかめる」と思った。寺近くの旅館を前線基地にあちこち回った。すると「初右衛門の古里は野津」であることが分かった。
翌日、路線バスで向かった。車窓の風景がゆっくり動く。もどかしさと期待。心が逸(はや)った。
豊後の国の孝行娘、その父を無償の愛で世話した常陸の人々。2世紀の時空を超え、遠く離れた大分県臼杵市と常陸太田市を結ぶ新たな物語が始まった。
(この連載は猪瀬明博が担当します) 
◆二孝女物語 あらすじ
1804(文化元)年、豊後国・臼杵(現・臼杵市野津町)の農民初右衛門がツユ、トキの姉妹を残し、浄土真宗開祖・親鸞ゆかりの地を巡る旅に出た。しかし、旅の途中に患った病が悪化し、青蓮寺(常陸太田市東連地町)で行き倒れに。寺の離れに住まわせてもらい、住職夫妻や村人らの世話で養生を続けた。
11(同8)年、京都であった親鸞550回忌の式で住職と初右衛門の菩提(ぼ・だい)寺の住職が偶然出会った。父の消息を知った姉妹は同年8月、父を古里に連れ帰ろうと決意。船と徒歩の300里(約1200キロ)の旅に出た。2カ月後に父と再会。翌春、親子3人そろって無事に帰郷を果たした。 

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