2011年10月31日月曜日

介護保険推進全国サミット

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10月27日と28日の二日間、臼杵市を会場に開催されました。私も、二日間参加しました。ケーブルテレビでも生放送された様子で、見た方もいらっしゃるのではないかと思います。

内容は大変素晴らしいものでした。特別講演の大林監督も臼杵の宣伝をして下さり、大いに臼杵を知って頂くことができたのではないかと思います。その分、費用と人員がかかりましたが。。

私にとっては、基調講演の権丈善一氏とパネリストの池田省三氏を知ることができたことが最大の収穫。自分の考えに近いものがあり、早速著書を購入することに。

大変有意義な二日間でした。

中央地区市政懇談会

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「社会福祉センター」で開催されました。
流石に中央地区、参加者は多く、約70名くらいか。

市長の市政報告の後、懇談会。
先頭を切って、中央区長会長の5項目の要望。

市の回答の後、他の1名から防災関連の要望が出されました。
が、それ以上の意見や質問も無く終了。

んー、皆さん思っていることを出せたのかどうか。。

年金、こんなところにも将来世代へのつけまわし

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こういうところも、すぐにでも制度改正をして頂きたいものです。

-------以下、日経新聞から転載

年金、デフレの罠 「もらい過ぎ」6年で15兆円  99年の特例発端
2011/10/30 23:43

2005~10年度の6年間に支給した年金給付費の累計が、04年の年金改革時の想定を15兆円程度、上回ったもようだ。現役の働き手の所得水準に対する高齢者の年金収入の比率は、政府の想定に反して上がり続けている。04年改革で旧自公政権は年金額の実質価値を毎年度、小刻みに下げる制度を取り入れた。だが賃金や物価の下落時はその制度が完全に働かないよう仕組んだことなどが、高齢者にとって意図せざる「もらい過ぎ」を招いた。年金制度はデフレの罠(わな)で身動きがとりにくくなっている。(編集委員 大林尚)
厚生年金の給付水準を示す物差しに所得代替率がある。男性会社員の平均手取り所得を分母に、高齢標準世帯の年金額(妻の国民年金を含む)を分子にとった値だ。04年度の所得代替率は59.3%だった。

■所得代替率、逆に上昇

自公政権は04年改革で所得代替率を毎年度、小刻みに切り下げ、23年度以降は50.2%に固定すると決めた。年金財政の長期安定性を高めるねらいがあり、2100年ごろまで50.2%を保つと厚生労働省は試算した。これが坂口力厚労相(当時)らが「百年安心」と名づけた経緯だ。

当時、10年度の所得代替率は56.8%に下がる想定だったが、実績は62.3%に上がっている。

厚生年金、共済年金、基礎年金を合わせた給付費は年間およそ50兆円。これをもとに10年度の所得代替率の見込み違い分を実額に換算すると、4兆5千億円程度になる。同じように、一定の仮定のもとで05年度以降の見込み違い分を粗く推計すると、10年度までの6年間の「もらい過ぎ」は累計15兆円前後に達するとみられる。

厚労省は09年に年金の財政検証を実施し、想定を変えた。その内容は、所得代替率を12年度から切り下げ始め、38年度以降は50.1%に固定するというものだ。04年時の想定に比べた「もらい過ぎ」は当分の間、解消せず、その財源は厚生・国民年金の積立金などを前倒しで取り崩して賄うことになる。結果として将来世代の保険料負担を上げるなどして辻つまを合わせざるを得ない。

所得代替率を小刻みに下げる制度が出だしからつまずいたのはなぜか。

■支給水準2.5%上回る

発端は消費者物価が0.3%下落した1999年。年金制度は物価連動が基本だったので、給付額も2000年度から0.3%下げるはずだった。しかし自民党幹部が横やりを入れ、特例法を成立させて年金額を据えおいた。これがあしき前例になり、その後も自公政権は物価下落時に同様の特例を設けることが増えた。積もり積もって11年度は実際の支給水準が本来の支給水準を2.5%上回っている。  問題は、実際の支給水準が本来水準を下回ってから、04年の改革で導入した所得代替率を下げる制度を発動すると決めている点にある。2.5%の差を埋めるとともに、賃金・物価が下落したときも所得代替率を下げる制度改革が焦眉の急だ。

2011年10月30日日曜日

TPPへの参加

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新聞に、TPPへ参加する意向であると報じられていました。私はこの決断を歓迎します。昨年の12月議会での意見書案の採決についてもTPP賛成の立場から討論しました。

TPPで決まった内容は10年かけて徐々に守っていかねばなりません。これからの10年間が正念場になります。無策を続ければ食料自給率が下ることは自明です。

食糧安全保障の観点から農業をどのようにしていくのか。耕作放棄地が増える一方で、仕事のない若者が増えていく。このような方向を生んだ農政を思い切って改革し、積極的に農業をすれば生活が成り立つような方向にしていかなければなりません。

2011年10月29日土曜日

「あらさがし」ではダメ

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水道使用料と市営住宅使用料の滞納のこと。

どのようになるのか。また、どのようになったのか。
きちんと事後報告をしてくださいとのご意見をいただきました。

言いっぱなしでは、「あらさがし」となります。
きちんと今後の対応を詰めていかねばなりません。

文化連盟 秋の文化祭

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明日は、文化連盟「秋の文化祭」です。
うすき市民合唱団と豊後さくら太鼓に出演します。
今日はリハーサル。いつもながら緊張しました。

市民合唱団は、次の4曲。
1 村祭り(私は太鼓のお囃子担当)
2 花嫁人形
3 大きな古時計
4 瑠璃色の地球

豊後さくら太鼓では、大太鼓のソロを担当します。

2011年10月27日木曜日

市営住宅の滞納について電話をいただきました

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「母子家庭の方で、市営住宅に入りたいのに入れない状況。民間借家では、滞納すれば追い出されてしまう。考えられない滞納額である。高額滞納者を追い出すことはできないのか」とのお問い合わせ。

市営住宅の滞納整理には、段階があって、手順を踏まなければ明け渡し請求はできません。
http://usuki.blogspot.com/2011/08/blog-post_23.html

滞納額の上位10名の滞納額調査を行った8月以降、「保証人に連絡します」との通知を行った様子。滞納者から反応はあっている模様です。

反応も無く、滞納整理が進まない場合は、保証人に連絡し、しかるべき手続きを速やかに進めなければなりません。

2011年10月25日火曜日

公務員人件費2割削減

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http://www.quon.asia/yomimono/business/oonishi/2011/10/07/2868.php
-------以下引用

公約どおり公務員人件費を2割削減すれば

2011年10月7日筆
国会審議が放映される日は仕事をしながらテレビをつけっぱなしで論戦を聞いています。朝霞の公務員宿舎の建設をめぐる攻防は完全に政府側の負けでした。建設を決めた野田佳彦前財務大臣(首相)と建設を遂行する安住淳財務大臣の国会答弁を聞いていますと、官僚たちが得ている既得特権を擁護する発言に終始しているように感じました。

民間のサラリーマンは自前で高い家賃を払ってマンションに入居しています。なぜ官僚が民間相場の3分の1にもならない安い家賃で公務員宿舎に入る特権を持っているのか、それについての説明がまったく出来ていないようでした。

従業員が得ている給与以外の利益のことをフリンジ・ベネフィットといいます。安い家賃の公務員住宅、安い金利の融資、安い利用料の福利厚生施設など公務員が得ているフリンジ・ベネフィットはいったい幾らになるのでしょうか。

官の給与は民の給与を20%以上上回る、外郭団体の給与はさらに高い
フリンジ・ベネフィットに触れる前に、公務員の正規の給与について触れておきます。下表は、自治労連、国公労連など公務員労組が属する全労系の「労働運動総合研究所」が11年5月の論文で示した公務員や政府系機関の平均年収の一覧です
1007表1.jpg
この平均年収が民間企業の従業員の平均年収に比べどれぐらい高いかについて、大和総研のチーフエコノミスト原田泰氏(経済企画庁出身)は家計調査の所帯主給与のデータを分析して「官の給与は民の給与を20%以上上回る」(「官民給与格差は大停滞の一因」(10年10月)と指摘しています。

さらに原田氏は地方での官民の給与格差はさらに広がるはずだとも指摘しています。国家公務員の給与は国の「人事院」、地方公務員の給与は地方の「人事委員会」の勧告に従って決められます。勧告の指標になるのは人事院と人事委員会が合同で行う「民間給与実態調査」による民間給与水準ですが、それも「かなり大規模な事業所のホワイトカラーの給与水準」と同等になるように決められています。多少調整されますが、地方公務員の給与水準も「かなり大規模な事業所のホワイトカラーの給与水準」に準じることになります。地方には東京のビッグビジネスのような高い給与が支払える企業などありません。その結果、地方での官民の給与格差は中央よりさらに拡大することになります。

上表の平均年収によれば、中央政府の外郭団体である独立行政法人、政府系金融機関、地方自治体の外郭団体である地方公営企業の平均年収が公務員よりはるかに高いということに驚かされます。公務員の天下り先の年収のほうが公務員より高いことになります。なお、最近は、外郭団体職員の非正規化が進み、正職員と非正職員の賃金格差が拡大していることを付記しておきます。

国家公務員の一人当たり人件費は1337万円、高すぎませんか
これらの平均年収にはフリンジ・ベネフィットは含まれていませんから、これを含めると実際の公務員等の平均年収はさらに大きくなると思います。

ではいったいフリンジ・ベネフィットを含め国家及び地方公務員にどれぐらいの人件費が掛かっているのでしょうか。それを類推する手掛かりの一つとして財務省主計局が昨年12月に公表した「平成23年度公務員人件費」の数字を下表にまとめました。

1007表2.jpg

上表の「一人当たり人件費」は、公務員の人件費総額を人数で割って算出した単純な金額です。この人件費総額にどの程度のフリンジ・ベネフィットが含まれるか判然としませんが、およその1人当たり人件費と考えてください。中央、地方の民間企業の皆さん、自社の従業員一人当たり人件費に比べ、国家公務員1337万円、地方公務員903万円という数字が高いか安いか、ご判断ください。ずいぶん高いと思われるでしょうね。

もう1つ、国債費(地方債費)などを除外した一般歳出に占める公務員人件費の占める割合も出しておきました(上表)。平成23年度の地方自治体の一般歳出は66.8兆円、給与関係経費は21.3兆円ですから歳出の約32%が人件費に費やされています。地方自治体は、さまざまな人的公共サービスを提供していますから人件費比率が高くなって当然ですが、そこの無駄はないといえるでしょうか。この21.3兆円もの地方公務員の人件費総額は、もっと厳密に「事業仕分け」され削減の対象にされてもなんら不思議ではありません。

国家、地方公務員の総人件費を1割削減すれば復興財源は軽く賄える
さて本題ですが、震災からの復興のために作成された「第3次補正予算」の財源問題です。政府は12兆円規模の歳出を11.2兆円の増税(与党民主党案では9.2兆円の増税)によって賄うとされています。増税対象は所得税、法人税、たばこ税です。

小生は、増税するならすべての国民(現在世代)が復興財源を負担するという意味で消費税が望ましいと考えています。しかし消費税増税を社会保障費の財源に充てるためにとっておくというのなら、復興財源はこの際、「みんなの党」が盛んに主張しているように公務員人件費の削減によって賄うというのもよいでしょう。

「民」は震災と円高不況でかつてない塗炭の苦しみを味わっています。「官」は、「民」から膏血(税金)を絞り上げて20%以上も高い給与を食んでいるのです。「官」は自ら身を削って「民」の塗炭の苦しみを肩代わりしてもおかしくない時期なのです。

「官」が率先して身を削らないのなら、政府、政治家が国民に代わって公務員人件費を削ることになります。現在、政府が提案している国家公務員給与の7.8%削減が実現すれば2900億円の財源が捻出できるそうです。

民主党の09年マニフェストどおり国家公務員の人件費を2割削減すれば、年間1.5兆円、復興期間10年間で15兆円の財源が出てきます。これだけあれば第3次補正予算の12兆円規模の歳出すべてを賄って余りあります。

2割削減は酷だというのなら1割削減でどうでしょうか。1割削減しても「民」の給与水準よりまだ高いのです。その場合、地方民間に比べ30%程度給与水準が高いと推定される地方公務員の人件費も1割削減することをすすめます(地方交付税を削減して対応できるはずです)。国家及び地方公務員の総人件費27.2兆円を1割削減すれば年間2兆7200億円、消費税に換算して1%以上の財源が出てきます。復興財源は5年間の人件費削減で賄えることになります。人件費削減を公務員より高給を食む政府系機関の正職員にまで広げれば、人件費削減率を1割以下にとどめることができるかもしれません。

しかし、朝霞公務員宿舎問題では財務省官僚が作成した役人特権を死守するための「屁理屈」に従って答弁した野田政権ですから、こんな荒療治などとても出来ないでしょうね。ましてや民主党の支持団体には自治労や日教組など官公労が控えています。荒療治はますます難しくなります。まことに残念です。

大分県市議会議長会議員研修会

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東洋ホテルで開催されました。

早稲田大学大学院教授 北川正恭氏を講師に招いての講演会。
演題は「地域主権三法の成立で地方議員に求められるもの」

議員と議会の質を高めていかなければ、議員不要論が出てくるのは必然。
地方から日本を変えていかなければなりません。
約一時間半の講演の後、意見交換会(懇親会)が行われます。
会場には、由布市議会議員や他の市の知り合い議員の顔も見受けられました。

2011年10月23日日曜日

常陸のこころ(5)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110140001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈5〉子孫交流 新たな実り

2011年10月14日
写真
初右衛門の住居跡の案内板ができた。二孝女研究に尽力した秋山高志さん、野上平さん(左から)は笑顔をみせた=常陸太田市東連地町の青蓮寺
大分県臼杵市の訪問団が14日、常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)を訪れる。目的は、初右衛門、ツユ、トキの父娘がお世話になったことへのお礼。そして、物語をきっかけに結ばれた両市の関係を深めるためだ。
中心となる「野津町きっちょむ史談会」は準備に万全を期し、交流会で披露する盆踊りや歌の練習を重ねた。200年ぶりの父娘のお礼の旅という設定で、寺までの小道を父娘に扮した会員が巡礼姿で歩くことにした。おみやげには特産のカボス2千個に焼酎、臼杵せんべい、石仏まんじゅう……。
出発が近づくにつれ、うれしいことが起こった。一般の市民らから「青蓮寺へのお布施に」と500円、千円と浄財が寄せられた。カボスを5個、10個と持ってきてくれた人もいて、出発までに3500個も集まった。
二孝女の映画化を企画している県立臼杵商業高校生徒会からは、全生徒で集めた震災義援金と手紙を大久保太一・常陸太田市長に渡してほしい、と託された。
迎える青蓮寺でも、今年5月に門徒(檀家(だん・か))らで設立した「二孝女顕彰会」が何度も打ち合わせをし、13日には式次第に沿って交流会のリハーサルも行った。
本番では双方の子孫の顔合わせも予定されている。臼杵市からは二孝女の子孫の川野勝行・美智代夫妻ら、常陸太田市からは初右衛門を診察した医師や父娘に援助をした近郷の名主の子孫らが出席する。
それぞれの地元小学校同士の交流も始まろうとしている。交流会では常陸太田市立山田小の3年生が二孝女について学んだことを発表。臼杵市立川登小の6年生が書いた作文も読まれる。両校は「息の長い交流をしていきましょう」と話し合っている。
行政も物語を地域の資源、財産ととらえ、両市とも顕彰会、史談会を支援している。すでに事務レベルで「姉妹都市締結なども視野」(大久保市長)に連絡を取り合っている。
顕彰会の目的は「二孝女の史実を広め、地域の豊かな人間関係を醸成し将来に伝えていくこと」と規約に書かれている。
次の世代につなぐこと。未曽有の大震災を経験し、家族や助け合いの心の大切さが多くの日本人の身にしみた今が好機と、物語に関わった誰もが考えている。
臼杵市では来年度、小学校の副読本にする予定だ。茨城ではすでに県立高校の道徳の副読本に載り、常陸太田市でも検討が始まった。
来年のいまごろ、今度は顕彰会が臼杵市を訪れる。ツユ、トキがまいた種が新たな実りを結びつつある。
=おわり
(この連載は猪瀬明博が担当しました)

2011年10月21日金曜日

ピザ釜

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お世話になった方の庭に「ピザ釜」が完成。
焼き立てピザをご馳走になりました。
県職員を退職して8年目、いろいろな趣味をお持ちの方で、今はピザ釜に御執心。
完成して以後50枚くらい焼き、皆さんに振舞ったとのこと。
70歳までに1000枚のピザを焼いて皆さんに食べていただくと張り切っています。
ご馳走さまでした。

常陸のこころ(4)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110130001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈4〉藩政改革 物語を封印

2011年10月13日
写真
昨年10月に建立された「豊後国二孝女の碑」と藤井智住職=常陸太田市東連地町の青蓮寺
豊後国(大分)のツユとトキが常陸国(茨城)で父と再会する10年前の1801(享和元)年、江戸幕府は「孝義録」という本を編纂(へん・さん)した。全国の孝行者、忠義者、奇特な人、農業に精を出している人などの事例集だ。
当時、貨幣経済の発展・浸透とともに貧富の差が激しくなり、犯罪も頻発した。農民は耕作を放棄し、富が集中する都会に流れた。世は乱れていた。幕府は孝義録によって、庶民に善行や忠義、本業精励を訴え、社会の秩序回復を図ろうとした。
こうした背景もあって、水戸藩は金品を姉妹に与え、帰郷の手配をするほど心を配った。当時の藩主・7代治紀(はる・とし)が掛け軸を贈ったという記録もある。
明治の時代に入っても善行表彰の制度はあった。ツユとトキの古里、大分県臼杵市野津町の川登小学校に残る碑が建立されたのは87(明治20)年だ。物語の顕彰とともに、人々の教化という側面があった。
そうしたお上の思惑とは関係なく、2人にまつわる話を臼杵の人々は郷土の物語として盆踊りの歌にもし、語り継いできた。
一方の茨城。藩をあげて姉妹を厚遇し、近郷近在の多くの庶民が心動かされた物語がどうして伝承されなかったのか。
二孝女研究に努める秋山高志さん(76)と野上平さん(74)は「烈公・9代藩主斉昭(なり・あき)の時代に台頭した藩政改革派の存在や、斉昭が断行した廃仏毀釈(はい・ぶつ・き・しゃく)(仏教排斥)の政策が封印したのでは」と推理する。
斉昭の時代になると、武士階級の力が衰え、藩の財政は危機的状況に陥った。そこで、後の天狗(てん・ぐ)党にも通じる若手急進派は、厳しい封建秩序の回復に躍起になった。温情の政治、寺が舞台の良い話など、もってのほかというわけだ。
史実を伝える当時の書簡類が青蓮寺(しょう・れん・じ)(常陸太田市東連地町)で見つかったのは、今からわずか6年前。藤井智住職(50)によると、経緯はこうだ。
1945年、先代の住職が亡くなると、2人の娘がしばらく寺を守ってきた。娘たちも他界し、先代の親戚筋にあたる藤井住職が10年前に寺に入るまで約20年、無住(住職のいない寺)だった。寺に残っていた掛け軸や文書類は、檀家(だん・か)(門徒)が住職の実家である願船寺(東海村)に預けていたという。
掛け軸の中には、川登小にある顕彰碑の碑文を印刷したものもあった。少なくとも先代は、物語を知っていたとみられる。
青蓮寺の本堂は、ツユとトキの父、初右衛門が世話になっていた間に建立された。そのわきに真新しい碑がある。
昨年10月、檀家らで建てた二孝女の碑だ。大分県では地元紙が伝え、臼杵市民が二孝女話の小説も出した。
常陸太田市と臼杵市の交流が、にわかに広がりをみせてきた。

常陸のこころ(3)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110120001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈3〉高校生、映画化の動き

2011年10月12日
写真
「二孝女物語」の映画化を企画している県立臼杵商業高校の生徒会役員=大分県臼杵市の同校
二孝女研究会の手になる史料集「豊後国の二孝女」(06年3月刊)を契機に注目が集まった物語。常陸太田市出身で現代語訳を任された著述業、橋本留美さん(41)には、不安とは裏腹に「この仕事は私に」という気持ちがあった。
史料集が発行される前から物語を知っていた。「すごい物語があってね。いま研究しているんだ」。研究会のメンバーで、常陸大宮市歴史民俗資料館の調査研究員、野上平さん(74)から聞いていた。橋本さんの父だ。
以来、物語に関心をもっていた。ただそれだけで読み解けるほど、古文はたやすくなかったが、その度に野上さんが救ってくれた。時代考証も引き受けてくれた。父娘の二人三脚だった。
シンガポールで過ごした20代後半の数年間の思い出も役立った。
海外で英語を生かした仕事に就きたいという一心で渡航。多くの人に助けられた自分が、豊後(大分)から遠路はるばる常陸(茨城)を訪れたツユとトキに重なった。
現代語訳のほかに英文の要約も頼まれていた。欧米の日本研究家も二孝女に着目し始めたからだ。この点ではシンガポール時代に身につけた語学力がいきた。
昨年9月末、「実話 病父を尋ねて三百里」(新日本文芸協会)を出版した。足かけ4年。依頼を受けた07年の1月に出産した女児を育てながらの作業。親の立場からも物語に寄り添えた。
二孝女の物語には、一般の読者だけでなく、全国の教育委員会などからも問い合わせが続いている。
大分県臼杵市にある県立臼杵商業高校。今年4月に着任した木戸孝明校長(51)は、前任校の同僚たちから餞別(せん・べつ)に1冊の本をもらった。橋本さんの本だった。斜め読みにとどめたせいか、臼杵の話であることも頭に残らなかった。
入学式、物語の伝承に励む「きっちょむ史談会」事務局長で市教育委員の荘田啓介さん(64)が来校。同校の同窓生でもある荘田さんの話を聞いて、本と二孝女の物語がすぐにつながった。その日に講演会を5月末に開くことを決めた。
臼杵商は3年後に閉校になる。大型連休後の生徒会室――。
「ラスト3年、何かビッグなことがやりたいね」
「二孝女で映画をつくっちゃおうか」
「地域の人もエキストラとして出てもらってね」
3年生がシナリオをつくり、2年生に引き継ぐ。そして今の1年生の卒業式後にある閉校式での上映を目指す。きっちょむ史談会も全面的に支援する構えだ。
実は200年前にも、二孝女のような孝行話を活用しようという動きがあった。

2011年10月19日水曜日

常陸のこころ(2)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110110001
-------以下asahi.comより

常陸のこころ

(2)姉妹の古里 子孫今も

2011年10月11日
写真
巡礼姿の二孝女を描いた鏝絵。1995年に作られた=大分県臼杵市野津町の市立川登小学校
2005年3月、元目白大教授(近世文化史)の秋山高志さん(76)は、路線バスで大分県臼杵市野津町に向かった。山が迫り、民家もまばら。心細さが頭をもたげた半面、江戸時代にはるばる常陸の国を訪れた初右衛門の古里に近づいていると思うと心が躍った。
野津町はその1月に臼杵市と合併したばかり。旧町役場の分庁舎などを回ると、「川登小学校の校舎に二孝女の鏝絵(こて・え)(しっくいで作ったレリーフ)や石碑がありますよ」と職員が教えてくれた。
タクシーで10分ほど。右手に2階建ての小さな小学校が見えてきた。校門の脇に明治時代に建てられた顕彰碑、校舎の正面には初右衛門の二孝女で巡礼姿のツユ、トキを描いた大きな鏝絵。手応えを感じ始めた。「こういうときは続くもの」。歴史家の直感だ。
「供養碑の場所を知っていますよ」。声の主は運転手だった。目と鼻の先の小高い丘にそれはあった。つぶさに観察していると人の気配。白い犬を連れた小柄なおじいさんが怪訝(け・げん)そうな顔を向けていた。
「まさか子孫はいないでしょうね」
「すぐそこの家だよ」
幸運はさらに続く。子孫の川野勝行さん(67)の妻美千代さん(67)が在宅していた。川野さんは入院中で、たまたま着替えを取りに帰ってきていた。
来意を告げ、仏間で待っていると、古ぼけた木箱を抱えてきてくれた。目を見張った。ツユ、トキが持ち帰った短冊帳や巻物などが入っていた。短冊帳を開くと、常陸の国の武士から商人、農民ら各層の人々が2人に贈った短歌、漢詩などがきれいに張られていた。
水戸藩の古文書「水戸紀年」にあった記述、そして今回の発見。秋山さんは水戸に戻ると、本格的な調査に入るため、歴史家や旧知の学芸員ら13人で「二孝女研究会」を設立した。
ほどなく今度は、常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)で遺物が見つかった。ツユ、トキからの礼状、臼杵藩や初右衛門の菩提寺(ぼ・だい・じ)・善正寺からの書簡――。土浦市立図書館と東大史料編纂所(へん・さん・じょ)にも関連の史料があることも分かった。
翌年3月、研究会は史料集「豊後国の二孝女」を刊行した。初版は500部で、2カ月後にはこの種の本としては異例の増刷をかけた。歴史家だけでなく教育界も注目し始めた。一般の読者向けに現代語訳を求める声が高まった。
07年、常陸太田市出身の著述業、橋本留美さん(41)に話が持ち込まれた。「すばらしい話だけど、古典は難しいし、私にできるかしら」
不安を抱えながら、作業に取りかかった。 

2011年10月18日火曜日

市政懇談会開催中

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10月号の市報でも案内されていますが、各地で順次「市政懇談会」が開催されています。
写真は、10月11日に開催された「風成地区」での開催風景です。市長の市政報告が約30分、その後、津波対策や各地域の要望など1時間程度の意見交換が行われました。

戸髙鉱山神野集積場

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昨年7月に戸髙鉱山と集積場の視察に行きました。
http://usuki.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html

新たに計画されている神野集積場の「環境影響評価」が行われ、その縦覧が10月1日~10月31日までの間、市役所の環境課で行われています。

集積場の場所は、次のような条件により選定されました。
1 神野八戸鉱区の周辺に位置していること。
2 石灰石の鉱床内に位置していないこと。
3 防災上、周辺に集落がないこと。
4 保安林、自然公園等の規制がなこと。
5 神野八戸鉱区の雑岩見込量2400万立米が堆積できる容量があること。
6 洪水調整地、底設暗渠、山腹水路、道路等を設置し安定した盛土堆積ができる地形であること。
7 景観に及ぼす影響が少ないこと。

集積場の規模は62ha、堆積量は2400万立米。盛土完成までに40年を要します。造成工事及び盛土に必要な最小範囲を2~3年毎に伐採し、盛土斜面は緑化と植栽により速やかに林地に回復する計画となっています。

一番の懸念は、水質の問題ですが、これについては石灰岩を採掘したときに出る雑岩を盛土しますので有機物を含まず、また既存の集積場でも有害物質は検出されていないようですから問題ないと思われます。また、久保ん谷湧水への影響ですが、これまでの水質調査から水系が違うことが推定されており影響はないと思われます。

次に水量の問題ですが、乙見ダムに流れ込む水が若干増えることが予想されていますが、その量は現在と比較して0.4%程度の増加と推計され、ほとんど影響はないと思われます。

また、大雨時の流量の増加についてですが、緑化植栽を行いますが自然の山に比べ出水量が一時的に増えることが考えられます。その対策として洪水調整地を設け下流への影響を最小限に抑える計画となっています。

石灰石を効率よく採掘するためには鉱山の至近距離に必ず必要な施設です。環境への影響が最小限となるよう工事には万全を期していただくとともに、臼津地域への発展に寄与して頂きたいと願います。

2011年10月17日月曜日

市民意見交換会

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市民に開かれた議会を目指して、大分市では「市民意見交換会」が実施されます。
臼杵市議会も見習いたいものです。
http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1281055797256/files/pdf.pdf

-------以下、開催要領抜粋

大分市議会 市民意見交換会を開催します 

1.期 間  平成23年10月21日(金)~10月27日(木)
2.時 間  午後7時~午後8時30分
※大南市民センター(10/22)は、午後2時~午後3時30分

3.場 所  地区公民館等13ヶ所

4.テーマ  (1)議会からの報告
・議会のしくみ
・議会改革の取り組み
・昨年の市民意見交換会における意見等のその後の経過
・議員定数
(2)市議会及び市政に関する意見交換

常陸のこころ(1)

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「二孝女」に関しては、茨城県でも大きく取り上げられています。
地元の新聞に5回シリーズで「常陸のこころ」として紹介されています。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110090001

-------以下 asahi.comより引用

常陸のこころ

(1) 孝行話 200年を超えて

2011年10月09日
写真
常陸太田市で披露する盆踊りの練習に精を出す「野津町きっちょむ史談会」会員ら=大分県臼杵市野津町の野津中央公民館
頓知話で知られる「吉四六(きっ・ちょ・む)さん」の里、大分県臼杵市野津町。1日夜、30人ほどの男女が中央公民館ホールに集まった。市中心部から離れた山あいの町で、盆踊りの練習が静寂を破った。太鼓の調子に合わせた口説き歌の中身は地元で語り継がれる孝行話。
「二孝女物語」という。臼杵が「豊後」、茨城県常陸太田市が「常陸」だった時代、豊後の農民初右衛門が旅の途中で常陸の青蓮寺(しょう・れん・じ)の前で病に倒れ、7年も村民らの厚情を受けた。母を早くに亡くした父思いの娘、ツユとトキが長旅の末に初右衛門と再会し、無事に古里に連れ帰ったという話だ。
踊る男女は「野津町きっちょむ史談会」の会員ら。物語の伝承に励む60代を中心とする市民団体だ。父娘の再会から今年で200年。14日、祖先を助けてもらったことへのお礼と常陸太田市との交流促進を図るために同市を訪れる。練習は2時間近く続いた。
史談会は1989年に結成され、地域の歴史・文化を後世に残す活動をしている。「二孝女」もその一つだが、言い伝えか史実かはっきりしないために、広がりにいま一つ欠けるうらみがあった。
「二孝女の記録は残っていませんか」。2004年、事務局長の荘田啓介さん(64)は青蓮寺に連絡を入れた。町に残る資料も送ったが収穫はなかった。「野津で地道に調べるしかない」。そう気持ちを切り替えた。
同じころ。元目白大教授(近世文化史)で水戸市に住む秋山高志さん(76)は、水戸藩の役人が著した「水戸紀年」に二孝女の記述を見つけた。わずか数行。興味をそそられ、友人で常陸大宮市歴史民俗資料館の調査研究員、野上平さん(74)に協力を求めた。常陸太田市に住む野上さんは早速、青蓮寺周辺の取材に動いた。古老や檀家(だん・か)に尋ねても知る人はいなかった。
秋山さんは05年3月、単身臼杵市に飛んだ。史談会の動きも知らず、あてはなかった。初右衛門の菩提寺(ぼ・だい・じ)・善正寺辺りに行けば、「端緒がつかめる」と思った。寺近くの旅館を前線基地にあちこち回った。すると「初右衛門の古里は野津」であることが分かった。
翌日、路線バスで向かった。車窓の風景がゆっくり動く。もどかしさと期待。心が逸(はや)った。
豊後の国の孝行娘、その父を無償の愛で世話した常陸の人々。2世紀の時空を超え、遠く離れた大分県臼杵市と常陸太田市を結ぶ新たな物語が始まった。
(この連載は猪瀬明博が担当します) 
◆二孝女物語 あらすじ
1804(文化元)年、豊後国・臼杵(現・臼杵市野津町)の農民初右衛門がツユ、トキの姉妹を残し、浄土真宗開祖・親鸞ゆかりの地を巡る旅に出た。しかし、旅の途中に患った病が悪化し、青蓮寺(常陸太田市東連地町)で行き倒れに。寺の離れに住まわせてもらい、住職夫妻や村人らの世話で養生を続けた。
11(同8)年、京都であった親鸞550回忌の式で住職と初右衛門の菩提(ぼ・だい)寺の住職が偶然出会った。父の消息を知った姉妹は同年8月、父を古里に連れ帰ろうと決意。船と徒歩の300里(約1200キロ)の旅に出た。2カ月後に父と再会。翌春、親子3人そろって無事に帰郷を果たした。 

2011年10月16日日曜日

「二孝女」お礼訪問団

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10月14日・15日、茨城県常陸太田市に行ってきました。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001110150001

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「二孝女」 大分からの使節団と交流

2011年10月15日
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昨年10月に建立された「二孝女の碑」の前で記念撮影する「野津町きっちょむ史談会」と「二孝女顕彰会」の会員=常陸太田市の青蓮寺
 家族愛、相互扶助の心に満ちた江戸時代の史実「二孝女物語」の主人公ツユとトキ姉妹の古里、大分県臼杵市の使節団約50人が14日、姉妹と姉妹の父、初右衛門が恩を受けた茨城県常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)を訪れた。
 臼杵市で物語を伝承する「野津町きっちょむ史談会」の会員を中心とした使節団は、午後4時過ぎに到着。姉妹と7年間も寺や村人に世話になった初右衛門に扮した会員を先頭に門前につくと、青蓮寺の藤井智住職(50)が「ようこそいらっしゃいました。200年ぶりですね」と出迎えた。
 本堂前で行われた式典では史談会の吉良卓美会長(77)があいさつの最後に、物語の映画化を目指す県立臼杵商業高校生徒会から託された震災義援金を常陸太田市の大久保太一市長に手渡した。
 交流会では、父娘の子孫と、初右衛門を治療した医師の子孫らの顔合わせもあった。使節団が披露した二孝女を題材とした盆踊りに顕彰会の会員らも飛び入り参加するなど、両市民の交歓の輪があちこちにでき、今後も長く交流を続けることを誓っていた。(猪瀬明博/asahi.com) 

2011年10月12日水曜日

臼杵港緑地整備事業のこと

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臼杵土木事務所から「臼杵港緑地整備事業に関するアンケート調査のお願い」が来ました。
皆さんもすでにご存知かも知れませんが、アンケート資料によると、フェリー乗り場の背後地に緑地が整備されるようです。

2011年10月4日火曜日

旧伊藤伝右衛門邸

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稲葉家下屋敷が旧伊藤伝右衛門邸に似ているとの記述を発見。
大変多くの観光客が訪れているとのこと。
http://mediasabor.jp/2008/03/post_335.html
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2007autumn/mono/mono.html#top

ここの入場料は、300円。
現在無料開放中の稲葉家下屋敷はいくらくらいが相場であろうか。

9月予算で、100万円の「稲葉家下屋敷」の案内表示の予算が成立した。
お殿様の帰郷の際のお屋敷として提供した、臼杵人の心意気が知れるような、ディープな案内表示が欲しいものである。

2011年10月3日月曜日

豊後国二孝女

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二孝女について書かれたブログをご紹介。
http://sans-culotte.seesaa.net/article/227975610.html

-------以下引用

“病父を尋ねて三百里”―「豊後国二孝女」の孝養

今は昔…とは言っても、ほんの200年前のお話―

豊後臼杵うすき領内の大野郡川登かわのぼりあざ泊村(現、大分県臼杵市野津町のつまち大字泊)に「豊後国二孝女」と賞賛された姉妹が居りました。

姉妹の名は、姉がつゆ、妹がときと言いました。

江戸時代の寛政8年(1796)、姉妹の母親が急病で亡くなりますが、姉妹は父である川(河)野初衛門と共に農作業に精出していました。

その後、文化元年(1804)3月5日、熱心な浄土真宗門徒である初衛門が、親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ます。

京都の寺々を巡った後、信濃、越後を目指し、途中上州辺りで持病の足痛の治療を兼ねて草津温泉に逗留。そこから、越後、奥羽地方を巡り、常陸に入り、久慈郡東蓮寺村(現、常陸太田市東連地町)辺りで足の痛みが再発してしまい、同領内に在る青蓮寺しょうれんじに逗留して療養する事を余儀なくされます。

こうした初衛門の窮状が故郷で待つ姉妹の許に伝わる事はなく、7年もの歳月が経ちました。

ところが―

文化8年(1811)、京の龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派本山、通称「西本願寺」「お西さん」)で親鸞上人の550回忌大遠忌おんき法会ほうえが催された際に出席した青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺(大分県臼杵市大字二王座におざ)の住職と歓談した折に初衛門の消息が判明し、姉妹の耳に伝わったのです。

実は初衛門が常陸に居るという噂はあったのです。そこで、つゆは幾度か父親探しの密行を計画したのですが、その都度事前に発覚したり、追っ手に抑えられたりして実現できずにいたのです。

しかし、初衛門の消息が確実のものとなった今、姉妹は居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

そうした姉妹の父親への孝養を尽くす姿が、水戸藩臼杵藩の共感を呼んで様々な支援を受けて、翌文化9年(1812)春、無事に親子3人で帰国を果たすのです。

姉妹の地元では“豊後国の二孝女伝説”として伝わっていて、供養碑が建てられていたり、旧盆の25日に「孝女祭」と銘打った供養法会が催されていました。

ところが、平成16年(2004)に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会した事をきっかけに、翌17年(2005)に青蓮寺臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、史実である事が判明したのです。
青蓮寺境内に完成した二孝女の記念碑

これらの書簡は『豊後国二孝女関係資料』として、同22年(2010)9月、常陸太田市の文化財に指定され、同年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立されました。

また、平成19年度(2007・4~08・3)の茨城県の県立高校の道徳副読本である『ともに歩む』に要約された内容が掲載され、青蓮寺が在る地元の小学校では、郷土学習や総合学習の教材として採用されたと聞きます。

姉妹の地元に在る臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌(3番)の中で、


緑したたる 校庭に
二孝女の碑を 仰ぎつつ
友愛 信義 勉学の
誉れも高き わが母校
という様に「豊後二孝女」が唱われています。

「豊後国二孝女」の三百里の旅路
泊村

臼杵港 8月11日発(この時、つゆ22歳、とき19歳であった…)

(船便で)森口(守口)(現、大阪府守口市) 8月27日着

(陸路、京街道を道行き)京 9月2日着 西本願寺に参拝

箱根関所 9月25日通過

江戸・臼杵藩江戸屋敷 9月29日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 10月2日発

水戸街道を道行き)小幡(現、茨城県東茨城郡茨城町) 10月7日着

水戸

東蓮寺村・青蓮寺 10月9日着

青蓮寺 2月9日発

江戸・臼杵藩江戸屋敷 2月13日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 3月5日発

大坂 3月25日着

大坂 3月29日発

臼杵 4月6日着

といった行程で、

泊 ⇔ 臼杵   …7里
臼杵 ⇔ 江戸 …258里
江戸 ⇔ 東蓮寺村…36里半
と、約300里(約1200km)の旅路を踏破した事になりますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」の美談を書き記している古文書(下)と書幅(左上)

私がちょうどこの「豊後二孝女」の事を知ったのが、今年の4月5日にオープンしたばかりの龍谷ミュージアム開館記念・親鸞聖人750回大遠忌法要記念展「釈尊と親鸞」展の第1期期間中(~5月22日まで)にだけ「豊後国二孝女」関連の資料を出展するという新聞記事を観たのが初見でした。

出展されていたのは、
  1. 二孝女碑・二孝女像
  2. 二孝女関係文書
だったのですが、

1は昭和15年(1940)に製作された掛け軸で明治20年(1887)に臼杵にて建てられた顕彰碑の碑文と共に「豊後国二孝女」の肖像が描かれたもの

2は2通あって、

1つは、青蓮寺宛平生忠剛書状(文化8年=1811)で、水戸藩と交渉した臼杵藩江戸屋敷留守居役の平生ひらお左介(助)忠剛ただたか青蓮寺に宛てた依頼状で、姉妹が初衛門の消息を善正寺から聞いて朧気おぼろげながら知っていた事。つゆの嫁ぎ先では舅姑の病気の介護に追われ、つゆの夫も奉公に出るなどで家庭が苦しかった様子を説明し、はからずも父親の迎えが遅延した事を姉妹に代わって詫びた内容が書かれています。

もう1つは、青蓮寺宛つゆとき書状(文化9年=1812)父・初衛門を江戸まで送り戻した姉妹(つゆ・とき)が青蓮寺に宛てた礼状でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」のこうした美談から思うのは、周辺の人々の反対を押し切り、危険を覚悟で命がけの旅に出た姉妹のひたむきさ、親を思う気持ちに共感に覚える事です。

私自身、一人っ子として育ち、体の弱い母にかわって祖母に育ててもらいました。(だから完全に“お婆ちゃん子”ですけどね…笑)

それ故に、周りから言われる以前に「親の面倒は自分がみる」と思ってますし、それが当然だと感じています。

周りの友人からすれば、このご時世に旧態依然としたオールドタイプな奴とみられがちですけどね…

― ◇ ◇ ◇ ―

もう1つ感じたのは、この親子に対して我が身のように心配し、温かい手を差し伸べた、当時の人々の心の持ち様に深い感銘を受けずにはいられません。

当時は侍・武士が身分や権力を傘に大威張り散らしていたし、ましてや庶民レベルでさえ、他国者よそものを蔑視するような排他的で閉鎖的な風潮だあったのは周知の事実。

それなのに、初衛門やつゆ・とき姉妹に関わった人たちは何と人道主義に溢れている事でしょう。

姉妹が帰国して周囲の人々に漏らした言葉の中に「御国様(=水戸藩領)へ参りましたれば、御慈悲深い事で、地獄より極楽へ生まれました…」と述べ、かの地を「御仁国」と語っています。

“何だろう”、水戸藩といえば“黄門様”徳川光圀以来の伝統として水戸学が有名ですね。

有名な話として、『史記』に記載された伯夷・叔斉の兄弟のエピソードを知った光圀が兄の頼重を差し置いて自分が水戸藩主になった事を心の痛手とし、頼重の子供を自分の養子として水戸家を継がせた話ですが、そうした光圀以来、水戸学の基礎となった儒学精神が御領内に息づいた結果なのでしょうか!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『広報ひたちおおた』2010年9月号
koho-hitachiota_2010-09.jpg

※(参照)二孝女(77段物)(大分よいとこ、より)→
※(参考文献)『豊後国の二孝女』 豊後国の二孝女研究会
※(参考文献)橋本留美『実話 病父を尋ねて三百里―豊後国の二孝女物語』新日本文芸協会

2011年10月2日日曜日

保育所・保育園の定員について

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佐志生保育所の定員の問題について報告しました。
http://usuki.blogspot.com/2011/06/blog-post_5355.html

佐志生保育所には、定員60名に対して69名が入所しています。その内訳は、佐志生地区の園児が11名、他の臼杵市内が57名、大分市が2名となっています。これまで報告したとおり「すみれ保育園」から多くの児童をバスで送迎している現状です。

バス送迎時の事故の危険性の問題や園児の負担などの問題があり、このままの状態を続けることは望ましくありません。では、佐志生保育所を廃止するかとなると、調査によると佐志生地区の児童は25名おり、そのうち来年度は13名が入所を希望しています。廃止となれば逆に佐志生地区の児童・保護者に負担が生じます。

保育所の定員は60名以上と法律で定められていますが、「過疎地域」では特例的に20名以上の定員が認められています。臼杵市は、野津町と合併後「過疎地域」に指定されており、「小規模保育所」としての運営ができます。ただし、経営の効率が悪い点が難点。

結果として、効率は悪いが佐志生地区にも配慮して「小規模保育所」を佐志生地区で運営するという方針になりました。現在の60名が20名定員となりますので、40名分を他に振り向けなければなりません。

施設設備の許容範囲であれば、いずこの保育所・保育園に振り分けることも可能ですが、これまで「すみれ保育園」が運営する「佐志生保育所」であるからこそ、遠くまでバスで通う条件でも保護者が保育を望んできたこれまでの状況を考えれば自ずと答えは出る気がします。